その日は風邪気味だった。
近場のスキー場へ仕事に行った母を迎えに行くからと居間での留守番を頼まれた。
(おれは二階にある自分の部屋がこの家で一番好きなので、飯でもない限り居間にはいない)
ストーブ前の一番あたたかな場所で、去年の誕生日に貰ったアイスブルーのDSでポケットモンスター・ダイヤモンドをプレイしていた。
最近はフカマルを育てている。
…じゃなくて、とにかくそんな感じで母と祖父の帰りを待っていた。
しばらくして、事件は起こる。
みずいろに青チェックの座布団に座る自分の横に配置されているソファの側面(『みずいろ』から『配置されている』、までがソファの修飾語だ)に出現したヤツ。
いや、ここは北海道だから、生まれてこのかたおれはゴキブリを見たことが無い。
クモだ。それも不必要なまでにでかい。
北海道在住の女子が最も(と断言してもいいだろう)恐れる身近な虫。
学校で出たときはそれはもうひと騒動で、難なく潰せる男子は勇者扱いだ。
そんなクモが50センチも離れていない位置でカサカサ音を立てていたとしたら?
こんなに近くで君を感じたのは初めてだよ、という心境のなか襲い来る恐怖感。
まるでオペラ歌手のような声が出た。
自分でも吃驚した。
そして、同じように驚いたのかヤツの動きが止まる。そのまま10秒、無言のにらめっこが続く。
おれはその10秒のあいだに色んな事を考えた。
潰すか否か、潰すとしたらその方法は?一番最初に浮かんだのはコロコロ(カーペットクリーナー)と呼ばれる神だった…しかし神は二階の自室。
取りに行くか?そのうちにヤツが消えたらどうする、援軍を呼んだらどうする。
色んな事を考えた結果、おれは自分の勇気と瞬発力に賭ける方法を選んだ。
自分が風邪気味だなんて事はもう頭に残っていない。
ヤツが身を置くソファに恐る恐る手を伸ばし、箱を掴む。
そこから本能のまま、ティッシュを引き出した。
クモいっぴき捕まえるのに5、6枚のティッシュを要するなんて、自分のチキンさに落胆したが、今は反省している場合ではない。
「うらァアァアア!!」
重ねたティッシュ片手に、気合い入れてクモ討伐へと向かう。
今おれの背景はベタフラッシュだ。きっと。
これ以上ないってくらい集中してに焦点を合わせ、これ以上ないってくらいのスピードで飛び掛ったハズなのに、ヤツはあっけなく攻撃をかわした。
「っそぉお…」
次なら、上手く仕留めれるかもしれない。
だが、次ももしかわされたらと思うと怖い。怖すぎる。
またもや頭の中を色々な考えが巡る。
しかしそんな俺を嘲笑うかのようにヤツは行動を開始した。
カサカサカサ…
「うふぉう!」
思わず身構えてそのまま硬直。
クモはそのままソファーの下へ。
これはヤバい。確実にヤバい。
「…シカトするか…?」
堂々巡りだ。
さっきから解決の糸口が少しも見えてこない。
「仕方ない…」
今度こそ、確実に仕留める。
とにかく武器の調達だ。
キッチンへ赴き、母愛用のクイックルワイパーに手をかける。
その間にも、ソファーへの視線は外さない。
素早くソファの前に戻り、クイックルワイパーを持ったまま壁に背が付いているソファを手前に引く。
ズズズ…
この祖父愛用のソファは収納もできる優れもので、本や手紙の束が入っているので少し重い。
十分手前に引く、もういいかと恐る恐るソファの裏を覗いてみる。と、
「あ…れぇ…」
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ソファを引いた事によって、クモが潰れていた。
中央にスペースはあっても、背の方は全て床にぴったり付いてるので、それに轢かれたのだろう。
無残にも平たくなったクモの姿。
俺をここまで恐怖させた小さな、いやクモにしては巨大な奴は、呆気なくソファに散った。
この溢れた勇気と闘志はどうしたらよいのか。
何枚も引っ張り出した大量のティッシュは、手に持つクイックルワイパーはどうしたらよいのか。
そして、潰れたクモの亡骸は。
仕方ないので、クイックルワイパーに付いたペーパーごと叩き完璧に息の根を止め、そのペーパーを外して裏面からそっとクモを掴んだ。
グッバイ小さな敵。
蓋付きダストボックスへセットされた市公認の有料ごみ袋へそっとペーパーと行き場の無い闘志を落とし、蓋を閉めた。