俺の父は“病”にかかることもなく、至って平凡な人生を送っていた。
人と少し違うのは、泳ぐのが早いというだけ。
俺の父は水泳、それも競泳選手だった。
20世紀の遺産を途絶えさせてはならないと、今のニホン国では大体のスポーツに保護が掛かっている。
保護されたスポーツの選手は、首都の“塔”の周り、五つの“塔”・ ジムに集められ、そこを居住地とされた。
20世紀ではそれこそ何にでも気軽に挑戦できただろうが、今は違う。
それこそ産まれた直後、遺伝子の配置やら成長のシュミレーションを調べ、国の規定に満たされた者とその家族が、限られたこのジムに入ることが出来る。出来る、というより強制的にだが。
そんな俺は立派に父の遺伝子を受け継ぎ、選手の息子としてではなく、ひとりの水泳の選手としてこのジムに居た。
但し、飛込選手として。
俺に、早く泳ぐ才能はなかった。それでも、実力でこのジムに入るのは凄いことではあるのだが、天才と呼ばれた父の子に、才能がないというのは民衆から見ると遺憾なものであったらしく。よく言われたものだ『本当に父の子か』と。生まれたと同時にDNA鑑定の時代だから、そんなの有る筈がないのに。
別に俺は繊細で傷付きやすいという性格でもなかったのでさして気に止めてなかった。
だけど天才だとかなんとか言われている父の背中を見るのは何故か嫌いだった。
しばらくして、“病妃”の出現により、“病”のこどものリサイクルが始まった。
そして俺は生まれてから863回目の検診で、“病”を患っていることが判明した。
「お前もか」
「群青…」
群青は同い年で同じジムで、競泳の、選手だった。
劣等感を抱かなかったといえば嘘になる。
なにかあるたび俺は群青と比べられた。競泳と飛び込みじゃ、話にならないのに。
群青の方が実の息子ではないのか、とまで言われた。
群青は優れた選手だ。
同じく優れた選手の、父の後継者とまで言われてた。
俺も選手。飛び込みの選手。だけど父や群青みたいにパッとした才能じゃない。
選手の中では、並だった。
「…残念だ」
「あぁ。天才の後継者だったのにな、お前」
「違う」
「なにが?」
「お前の、ことだ」
“病”のこどもの為に、隔離されたブロック。
しばらくは生まれ育ったこのジムの中だが、そのうち違う“塔”に移される。
食料を調達するこども、だけが集まった、“塔”に。
「いつも、競泳用のコースから、お前を見てた」
「…なんで」
「綺麗だと思った」
群青とはあまり良い関係ではなかった。話した事も殆ど無い。それは下らない劣等感のせいだと思っていたけれど。
「泳ぐというのは、地を這うことと同じだ。それより、空を飛べるお前の方が羨ましくて、美しかった」
お互いの交差する視線に気付かないふりをして、ただ逃げてただけかも知れない。
俺が群青を羨ましいと思う様に、群青も俺が羨ましくて、飛びたいと思ったんだ。
「飛べばいいよ。これから」
そしてその数日後、予想した通りに飛行艇で迎えが来た。
大抵のこどもは泣き叫んだ。親と離れたくないと、命を賭して狩りに出たくないと。
でも俺たちは幸せだ。一昔前は間髪入れずに処分だったのだから。
生まれたときから他のこどもと違う才能を持っていた俺ら“ジム”のこどもは、初任務なのに難儀な仕事を任された。
朽ちた“塔”の探索。
かつておとなが住み、こどもが住み、正常に作動していた“塔”が、何らかの原因によって毒気を防ぐことが出来なくなり、人が去った、または殲滅したもの。
その“塔”の朽ちた原因と、残った食料の探索が俺たちの初任務。
“塔”の中は殺伐としていた。
逃げ遅れたのか、そのまま朽ちてどろどろになった死体を横目に、俺らのチームは探索を続ける。
至るところの壁は割れ、すぐ近くの奈落、から汚濁した水の臭いを引き入れていた。
「知ってるか?奈落は、むかし『海』って呼ばれてたんだぜ」
チームのひとりがこんなことを言った。
「澄んだ深いあおいろで、それはそれは綺麗だったらしいよ」
気持ち悪い。“病”にかかってるって教えられたときも、どこか他人事だった死が、ここにはある。毒気、腐ったコンクリート、死体、奈落の臭い。
俺たちは何も見ていないふりをして、上へ上へと昇っていった。
最上階までたどり着いたところで、俺たちの任務は終了となる。
結果、再利用可能度ゼロ。
なにもかもが、使い物にならない。
「ちょっと、屋上みてから帰るよ」
「そうか?気を付けろよ」
初任務に疲れたらしい他のみんなは、早々に引き上げた。
俺だけが、屋上への扉を開く。
奈落の臭いが混じった毒気の風が吹いた。
ここからは、奈落が見える。
果ての無い奈落。かつては、海だった。教科書でしか見たことのない海だけど、もう少しの面影もないと分かる。
「おい」
「あれ、群青」
俺だけだと思ったのに、うしろには群青が居た。
屋上のふちに立つ俺に、ゆっくりと近付いてくる。
「あれが、海だよ」
「ただの奈落だ」
俺らの居た“ジム”の近くに奈落は無かった。俺はこの初任務で初めて奈落、海を見た。
“病”にかかることがなければ、一生見れなかったかもしれない奈落。
「海なんて知らなかった、化学洗浄されたエイチツーオーに沈むことしか知らなかった」
「死ぬなら、海で」
「“病”にかかって、俺は良かった」
群青に、自分に言い聞かせるようにゆっくりと呟いた。
負け惜しみとかじゃない。これが俺の純粋な気持ちだった。
「此処ももうじき壊れる」
「だから、」
毒気で澱んだ空を背景にして、切ない笑顔で両手を大きく広げ、縋るように伸ばしたら
「抱き締めて」
言いたい言葉を飲み込んだような顔付きの黄昏がきつく抱き返してきて。
「ぐんじょう、群青、」
「黄昏…」
重心を移動させ、特殊合金の床を蹴って、そのまま後飛。黄昏の腕を解いたりなんか、しない。
俺たちは灰色の海へ飛び込んだ。